LOGIN雪が降っていた。
まだ雪乃が幼かった頃。 山道の奥から、か細い鳴き声が聞こえた。 「……なに?」 雪乃は足を止めた。 家へ帰る途中だった。 母には、暗くなる前に戻りなさいと言われていた。 それでも、その声を無視することができなかった。 木々の間を進む。 そこで見つけたのは、一匹の白い狐だった。 真っ白な毛並み。 金色の瞳。 そして、後ろ脚には鉄の罠が食い込んでいる。 「かわいそう……」 雪乃は狐のそばにしゃがみこんだ。 狐が牙を剥く。 「大丈夫。何もしないよ」 もう一度、低く唸る。 「怖いよね」 雪乃は自分の羽織を脱いだ。 「でも、このままだと死んじゃうよ」 狐はじっと雪乃を見ていた。 雪乃は震える指で、鉄の罠に手をかけた。 硬い。 子どもの力では簡単には開かない。 何度も指を挟みそうになりながら、雪乃は必死に力を込めた。 「……もうちょっとだから」 ようやく罠が外れる。 白狐は飛び退いた。 その脚から、赤い血が雪へ落ちた。 雪乃は羽織を裂き、狐の脚に巻いた。 「これで少しはいいかな」 狐は逃げなかった。 ただ、金色の瞳で雪乃を見つめている。 「もう、人間に捕まっちゃ駄目だよ」 雪乃は笑った。 「今度会ったら、ちゃんと逃げるんだからね」 狐は一度だけ、雪乃の手に鼻先を寄せた。 そして雪の中へ消えていった。 それが、雪乃の記憶に残る白狐だった。 「……あの狐が、朔夜?」 翌朝。 雪乃は布団の上で天井を見つめていた。 眠れなかった。 黒羽朔夜。 白銀の髪。 金色の瞳。 言われてみれば、あの日の狐と同じ色だった。 「いやいや……」 雪乃は起き上がった。 「狐が男になるわけないじゃない」 口に出してから、昨夜見たものを思い出す。 屏風に映った、白い尾。 「……いや、なるの?」 自分で問いかけても、答えてくれる者はいない。 雪乃は頭を抱えた。 花霞楼には、怪談好きの客も来る。 狐が人に化ける話。 狸が旅人を騙す話。 山には人ならざる者が棲むという昔話。 それを本気で信じたことなどなかった。 なのに。 朔夜だけは。 「……人間じゃないっていうの?」 襖の向こうから声がした。 「雪乃姉さん。黒羽さまがお見えです」 雪乃は顔を上げた。 「また!?」 昨日、明日来ると言っていた。 確かに来るとは聞いていた。 それでも早すぎる。 「朝から何なのよ、あの男……」 文句を言いながら、雪乃は立ち上がった。 座敷へ入ると、朔夜はすでに茶を飲んでいた。 「……おはようございます」 「ああ」 「朝から花魁に会いに来る殿方なんて、初めて見ましたわ」 「そうか」 「嫌味なんですけど」 「分かっている」 雪乃は口をつぐんだ。 やはり調子が狂う。 客なら、どんな男でも扱える。 機嫌の取り方も、喜ぶ言葉も分かる。 けれど、この男には何を言っても反応が薄い。 雪乃は朔夜の正面に座った。 「聞きたいことがあるの」 「聞け」 「あなた、本当に……」 言いかけて止まる。 こんなことを真顔で聞く日が来るとは思わなかった。 「あの白い狐なの?」 朔夜は茶碗を置いた。 「ああ」 即答だった。 雪乃は固まった。 「……もう少し驚かせるとかないの?」 「聞かれたから答えた」 「そうじゃなくて!」 朔夜は袖をまくった。 右腕に、古い傷がある。 細く、長い傷。 雪乃は目を見開いた。 幼い頃。 罠から逃れようと暴れた狐が、同じ場所を傷つけていた。 「……本当に」 雪乃は手を伸ばしかけた。 しかし、寸前で止める。 朔夜がその手を見た。 「触っても構わん」 「触りません」 「そうか」 「なんでちょっと残念そうなのよ」 「別に」 「絶対、今ちょっと残念だったでしょ」 「気のせいだ」 雪乃は睨んだ。 表情はほとんど変わっていない。 この男、本当に分かりづらい。 「……それで」 雪乃は気を取り直した。 「ずっと、あたしを知ってたの?」 「ああ」 「ずっと?」 「時々、見ていた」 雪乃の眉が上がった。 「……それ、怖くない?」 「そうか?」 「そうよ!」 「姿を見せれば、おまえは驚いただろう」 「今も十分驚いてるわよ!」 朔夜は少し考えた。 「では、どちらでも同じだな」 「違う!」 雪乃は思わず額を押さえた。 九尾の妖狐というものは、全員こうなのだろうか。 「どうして今まで助けに来なかったの?」 今度は、朔夜が黙った。 雪乃の声から、冗談めいた調子が消える。 「あたしが花霞楼に入ったことも、知ってたんでしょう?」 「ああ」 「だったら……」 どうして。 その言葉だけは、口にしたくなかった。 助けてほしかった、と言っているようで。 自分で選んだことなのに。 小雪を守るためなら、何だってすると決めたのは自分だった。 朔夜が静かに答えた。 「おまえが望んでいると思っていた」 「え?」 「妹を守るため、自分で決めた道だと」 雪乃は黙った。 「無理に連れ出せば、おまえは俺を恨んだだろう」 「……そうね」 たぶん、そうだった。 小雪の生活が保証されないまま自由だけを与えられても、雪乃は花霞楼を出なかった。 「だが、小雪から事情を聞いた」 朔夜の金色の瞳が、わずかに鋭くなる。 「おまえが送った金を鷹司が抜いていたことも。借金がとうに返し終わっていることも」 「……やっぱり、そうなのね」 「だから来た」 短い言葉だった。 雪乃は朔夜を見つめた。 「恩返し?」 「ああ」 「それだけ?」 朔夜は少しだけ首を傾げた。 「何が聞きたい」 「別に!」 雪乃は顔を逸らした。 なぜ自分が、少しだけがっかりしたのか分からない。 恩返し。 それで十分ではないか。 命を助けた狐が、自分を助けに来てくれた。 昔話なら、美しい話だ。 それなのに胸の奥が、妙にざわつく。 朔夜が立ち上がった。 「行くぞ」 「どこへ?」 「小雪のところだ」 雪乃は勢いよく振り返った。 「今から!?」 「ああ」 「でも、あたし仕事が――」 言いかけて、止まった。 小雪。 会える。 妹に。 「……待って」 雪乃も立ち上がった。 「すぐ支度する!」 「そのままでいい」 「よくないわよ! 何年ぶりに会うと思ってるの!」 朔夜は雪乃を上から下まで見た。 花魁として整えられた髪。 華やかな着物。 「十分綺麗だ」 「…………」 雪乃の動きが止まった。 朔夜は何事もなかったように襖へ向かう。 「行くぞ」 「……そういうの、急に言わないでよ」 「何がだ」 「何でもない!」 背中を向けた朔夜には、雪乃の赤くなった顔など見えていなかった。 花霞楼から少し離れた町外れ。 朔夜に連れられて雪乃が辿り着いたのは、小さな屋敷だった。 豪華ではない。 けれど、手入れされた庭には季節の花が咲き、穏やかな空気が流れている。 「ここ?」 「ああ」 「小雪がいるの?」 朔夜が頷いた。 雪乃の足が止まった。 急に怖くなる。 何年も会っていない。 自分が花魁になってまで守ろうとした妹。 あの子は、自分をどう思っているのだろう。 もしかしたら。 こんな姉を、恥ずかしいと思っているかもしれない。 「……雪乃」 朔夜が呼んだ。 「何よ」 「震えている」 雪乃は手を握った。 「うるさいわね」 「そうか」 「そこは励ましなさいよ!」 「必要ない」 朔夜は淡々と言った。 「小雪は、毎日おまえの話をしていた」 雪乃が顔を上げる。 「……本当に?」 「ああ。姉は綺麗だ。姉は優しい。姉は強い。姉は――」 「もういい!」 雪乃は両手で顔を覆った。 「何なの、あの子! かわいい!」 朔夜は無言で雪乃を見ていた。 「……何よ」 「いや」 「笑った?」 「笑っていない」 「今、絶対笑ったでしょう!」 そのとき。 屋敷の戸が開いた。 「……お姉ちゃん?」 雪乃の身体が止まった。 小さな声。 何年経っても、忘れるはずがない。 ゆっくり振り返る。 そこに立っていたのは、小柄な少女だった。 柔らかな黒髪。 大きな瞳。 淡い桜色の着物。 幼い頃の面影を残しながら、少しだけ大人になっている。 「……小雪」 小雪の目から、ぽろぽろと涙が落ちた。 「お姉ちゃん……!」 雪乃は走った。 花魁の歩き方も。 着物の裾も。 そんなものは、どうでもよかった。 「小雪!」 妹を抱きしめる。 「お姉ちゃん!」 「小雪……小雪……!」 いる。 生きている。 腕の中にいる。 雪乃は何度も、小雪の髪を撫でた。 「痛いところない? ちゃんと食べてる? あの男に何かされなかった? どこか怪我してない?」 「お姉ちゃん、いっぺんに聞かないで!」 「だって心配だったのよ!」 「うん……」 小雪も雪乃を強く抱きしめた。 「ごめんね」 「何で小雪が謝るの」 「あたしのせいで、お姉ちゃん……」 「違う」 雪乃は即座に言った。 小雪の頬を両手で包む。 「小雪のせいじゃない」 「でも……」 「あたしが決めたの」 雪乃は微笑んだ。 「あなたを守りたかったから」 小雪の目から、また涙が溢れる。 「……お姉ちゃんの馬鹿」 「何よ」 「あたしだって、お姉ちゃんを守りたいのに」 雪乃の目が潤んだ。 「……もう」 妹をもう一度抱きしめる。 「あたしの妹、かわいすぎる……」 「お姉ちゃん!?」 「小雪! 顔見せて! ああ、やっぱりかわいい!」 「ちょ、ちょっと!」 離れた場所で、朔夜が二人を見ていた。 雪乃が振り返る。 「朔夜!」 「なんだ」 「小雪、かわいいでしょう!」 小雪が真っ赤になった。 「お姉ちゃん!」 朔夜は小雪を見た。 「そうだな」 それから雪乃を見る。 「だが、おまえのほうが好みだ」 「…………」 雪乃の顔が一気に赤くなる。 「今それ言う!?」 「聞かれたから答えた」 「誰もそういう意味で聞いてない!」 小雪がくすくす笑った。 「お姉ちゃん、黒羽さまと仲良しなんだね」 「違う!」 朔夜が言った。 「嫁に来てもらう予定だ」 「決まってない!」 「えっ!?」 小雪の目が輝いた。 「お姉ちゃん、結婚するの!?」 「しない! まだ!」 「まだ?」 雪乃は固まった。 朔夜が雪乃を見る。 「まだ、らしい」 「朔夜! 余計なこと言わないで!」 小雪は嬉しそうに笑った。 その笑顔を見て、雪乃は胸が温かくなる。 こんな顔を守りたかった。 ずっと。 そのために、自分は花魁になった。 間違っていなかった。 少なくとも、この笑顔を見られたことだけは。 その頃。 町の中央にある大きな屋敷では、一人の男が手紙を読んでいた。 白い指が、紙をゆっくりと折る。 整った顔立ち。 冷たい瞳。 豪奢な着物を身につけた若い男。 鷹司蓮。 「黒羽朔夜……」 男はその名を呟いた。 側近が頭を下げる。 「小雪という娘は、黒羽の屋敷に匿われているようでございます」 「そうか」 「雪乃も、本日そこへ向かったとのこと」 蓮は、ほんの少し口元を上げた。 「姉妹揃って、俺のものから逃げるつもりか」 「いかがいたしましょう」 蓮は立ち上がる。 「決まっている」 窓の外へ視線を向けた。 その表情には怒りも焦りもない。 ただ、ひどく冷たい笑みだけがあった。 「迎えに行く」 側近が顔を上げる。 「自ら、ですか?」 「ああ」 蓮は扇を手に取った。 「それに――」 一瞬だけ、小雪の顔が脳裏をよぎった。 怯えながらも、自分を睨み返した大きな瞳。 今まで自分に近づいた女とは、まるで違っていた。 蓮は眉を寄せる。 「……あの小娘には、まだ言いたいことがある」百夜が始まった。朔夜の言葉を聞いても、雪乃にはすぐ意味が理解できなかった。左肩に浮かんだ白銀の紋様。雪の結晶にも、狐の尾にも見えるその印は、淡い光を放っている。「……消えない」雪乃は指先で触れようとした。「触るな」朔夜がその手を止める。いつもの淡々とした声。けれど、手に込められた力が少し強い。雪乃は朔夜を見た。「痛くはないよ」「今はな」「今は?」朔夜は答えなかった。「朔夜」「……朝になったら話す」「今聞きたい」「雪乃」「百日後に死ぬかもしれないって言われて、眠れると思う?」朔夜が黙る。雪乃は彼の手を振りほどかなかった。「隠さないで」「…………」「もう、あたしの人生なんだから」その言葉に、朔夜の目が僅かに動いた。やがて。「分かった」朔夜は雪乃の前に座った。「百夜の印が現れた者は、一夜ごとに妖の気を受ける」「妖の気?」「俺の力だ」「それが、あたしの身体に入ってくるってこと?」「ああ」「それで人間の身体が耐えられなくなる」「そうだ」雪乃は肩の印を見る。「じゃあ、百日経つ前に半妖になればいいんでしょう?」「それほど簡単ではない」「どうして?」「人としての身体が、妖の力を拒む」朔夜の声が低くなる。「過去の花嫁たちも、それで死んだ」雪乃は息を止めた。「……何人?」朔夜は答えない。「朔夜」「七人」雪乃の表情が固まる。「七人……」「俺だけの花嫁ではない」「え?」「黒羽の一族全体だ」雪乃は少しだけ息を吐いた。けれど。胸の中に生まれた違和感は消えなかった。「それでも……あなたも、花嫁を迎えたことがあるの?」沈黙。雪乃の胸がざわつく。自分でも驚いた。百夜の呪いより。その質問の答えを聞くほうが怖い。朔夜は首を横に振った。「ない」「……本当に?」「ああ」「じゃあ、あたしが初めて?」「そうだ」雪乃は思わず胸を撫で下ろした。そして。すぐに我に返る。「って、何安心してるのよ、あたし」「嫉妬か?」「違う!」「そうか」「ちょっとくらい否定させなさいよ!」朔夜の表情は変わらない。雪乃はむっとして、布団へ座り直した。「でも、変ね」「何がだ」「あなたは千年生きてるんでしょう?」「ああ」「その間、一度も好きな人がいなかったの?」「いなかった」
朔夜の指が、雪乃の頬に触れていた。ただ、それだけだった。なのに。雪乃は動けなかった。男に触れられることなど、珍しくもない。花霞楼では、それが仕事だった。手を握られる。肩を抱かれる。甘い言葉を囁かれる。相手が何を望んでいるのかを察し、それに応える。雪乃にとって、それは呼吸と同じくらい自然な仕事だった。けれど。今は違う。「……雪乃」朔夜が呼ぶ。低い声。それだけで、胸の奥が熱くなる。「何?」「嫌なら言え」雪乃は目を瞬いた。「……何が?」「触れられることだ」雪乃は少し笑った。「今さら?」「ああ」「花魁だった女に聞くこと?」朔夜の表情は変わらない。「花魁だったことは関係ない」「…………」「今ここにいるのは、俺の客ではないだろう」雪乃の胸が、ぎゅっと締めつけられた。朔夜の手が離れようとする。反射的に。雪乃はその手首を掴んだ。「……待って」朔夜が止まる。雪乃自身が、一番驚いていた。今まで。客の手を止めたいと思ったことはあっても。離れていく手を追ったことなどなかった。「どうした」「……分からない」「何が」「あたし、自分でも分からないの」雪乃は朔夜の手を握ったまま俯いた。「こういうとき、いつもなら分かるのよ」相手が欲しい言葉。欲しい表情。欲しい仕草。全部。「でも、朔夜の前だと……何をしたらいいのか分からない」「何もしなくていい」雪乃が顔を上げる。「え?」「おまえは俺を楽しませるためにいるわけじゃない」朔夜は淡々と言った。「笑いたくなければ笑わなくていい」「…………」「触れたくなければ、触れなくていい」雪乃の指が、朔夜の袖を握る。「じゃあ……」「なんだ」「触れたいときは?」朔夜の金色の瞳が、雪乃を見る。「触れればいい」「……簡単に言うのね」「難しいのか」「難しいわよ」雪乃は小さく笑った。「好きな男になんて、触れたことないもの」初めて口にした。好きな男。朔夜は驚きもしない。赤面もしない。ただ。「そうか」と言った。雪乃は眉を寄せる。「もうちょっと何かないの?」「何が欲しい」「知らない!」「困った女だな」「あなたにだけは言われたくない!」雪乃が睨む。朔夜はほんの少しだけ目を細めた。笑った。たぶん。それを見たら、余計に悔
翌朝。花霞楼は、いつもとは違うざわめきに包まれていた。遊女たちが廊下の隅に集まり、小声で話している。「黒羽さまがいらしたって」「雪乃姉さんを身請けするって、本当?」「でも鷹司さまが許さないって……」雪乃は鏡台の前で、黙って紅を引いていた。いつもと同じ化粧。いつもと同じ髪。いつもと同じ、花霞楼の雪乃。けれど。今日が最後になるかもしれない。鏡の中の自分を見つめる。「……最後、か」昨日までなら、そんなことを考えるだけで怖かった。花霞楼を出たら、自分に何が残るのだろう。男を楽しませる術。酒を注ぐ手つき。客が欲しい言葉を見抜く目。ここで身につけたものは、外の世界で何になるのだろう。けれど今は。不思議と、少しだけ楽しみだった。小雪がいる。そして。「……朔夜」名前を口にすると、胸の奥がほんの少し温かくなる。「何考えてるのよ、あたし」雪乃は自分の頬を軽く叩いた。今日は恋に浮かれている場合ではない。まず、自分の人生を取り戻す。そのための日だ。大広間には、すでに三人の男がいた。花霞楼の主人。鷹司蓮。そして黒羽朔夜。女将が雪乃を迎える。「来たね」「はい」雪乃は座敷へ入り、静かに座った。仕事中の一人称に戻す。「お待たせいたしました」鷹司が薄く笑った。「相変わらず、こういう席では完璧だな」「お褒めいただき、ありがとう存じます」「褒めてはいない」「まあ。残念でございます」鷹司の眉が動く。朔夜は何も言わない。ただ雪乃を見る。それだけで、なぜか落ち着いた。主人が咳払いをした。「では、雪乃の身請けについてですが……」鷹司が一枚の証文を畳へ置いた。「話すことなどない」昨日、雪乃が見せられたものだ。新たな借金。保証人、鷹司蓮。「この女には、まだこれだけの負債がある」朔夜は証文を一瞥した。「偽物だ」座敷が静まり返った。鷹司の目が細くなる。「何?」朔夜は懐から、別の帳簿を取り出した。「三年前からの入金記録だ」雪乃が目を見開く。「それ……」「小雪の家から回収した」帳簿を開く。雪乃が花霞楼から送り続けていた金。鷹司側へ渡った金。借金として差し引かれた額。すべて記録されている。朔夜が淡々と言った。「元金も利息も、とっくに払い終わっている」鷹司は鼻で笑った。「だか
「百夜目まで、生きた花嫁はいない」 鷹司蓮の言葉が、部屋に残った。 雪乃は朔夜を見つめた。 いつもと変わらない顔。 静かな金色の瞳。 だからこそ、怖かった。 「……朔夜」 返事はない。 「嘘だって言って」 小雪が雪乃の袖を握る。 朔夜は、ゆっくり目を伏せた。 「嘘ではない」 雪乃の胸が冷えた。 「じゃあ、本当なの?」 「ああ」 「九尾の妖狐に嫁いだ人間は、百日で死ぬ?」 「正確には違う」 鷹司が鼻で笑った。 「大差あるまい」 朔夜の視線が鷹司へ向く。 「黙れ」 声は低かった。 怒鳴ったわけではない。 それなのに、空気が凍ったように感じた。 鷹司も笑みを消す。 雪乃は立ち上がった。 「二人とも、あたしを置いて話を進めないで」 朔夜を見る。 「説明して」 「ああ」 「最初から全部」 「分かった」 朔夜は座り直した。 雪乃も、その正面へ座る。 小雪は姉の隣から離れなかった。 鷹司だけが柱に寄りかかり、腕を組んでいる。 朔夜が口を開いた。 「九尾の一族には、古い契りがある」 「契り?」 「人の女を伴侶として妖の領域へ迎えると、百夜の間に、その女の命が妖気に侵される」 雪乃は黙って聞いた。 「身体が耐えられなければ、百夜を迎える前に死ぬ」 小雪の指が、雪乃の袖を強く掴む。 「じゃあ……お姉ちゃんが黒羽さまと結婚したら……」 「必ず死ぬわけではない」 朔夜が言った。 「助かる方法はある」 鷹司が薄く笑う。 「成功した者はいないがな」 「鷹司さま!」 小雪が睨んだ。 蓮が眉を上げる。 「何だ」 「そんな言い方しなくてもいいじゃないですか」 「事実を言っただけだ」 「でも、お姉ちゃんが怖がるでしょう」 「怖いなら嫁がなければいい」 「それはそうですけど」 小雪は少し考えてから、 「……鷹司さまって、言い方が嫌な人ですね」 と言った。 「…………」 蓮の眉間に皺が寄る。 「おまえにだけは言われたくない」 「どうしてですか?」 「もういい」 「そうですか」 小雪は `( '꒳' )すんっ` と姉のほうを向いた。 蓮が何か言いたそうに口を開き、やめる。 雪乃はこんなときなのに、少しだけ笑いそうになった。 だが、すぐに朔夜へ視線を戻した。 「助かる
「お姉ちゃん、もう少し食べて」 「小雪こそ食べなさい。細すぎるわよ」 「お姉ちゃんだって!」 「私はいいの」 「よくない!」 小さな膳を挟み、雪乃と小雪は向かい合っていた。 再会してから、まだ一刻も経っていない。 それなのに雪乃は、小雪が何を食べているのか、夜は眠れているのか、着物は足りているのかと、聞きたいことが尽きなかった。 「本当に、困ってることはない?」 「ないよ」 「お金は?」 「黒羽さまが、取り返してくれたから」 小雪はそう言って、ちらりと朔夜を見る。 少し離れた場所で、朔夜は静かに茶を飲んでいた。 まるで姉妹のやり取りなど聞いていないような顔をしている。 雪乃は眉を寄せた。 「ねえ、朔夜」 「なんだ」 「あなた、小雪に何をしてくれたの?」 「必要なことをしただけだ」 「それじゃ分からないのよ」 小雪がくすりと笑った。 「黒羽さまね、怖そうだけど優しいよ」 「怖そうは余計だ」 「あ、ごめんなさい」 「別にいい」 雪乃は朔夜をじっと見た。 「……小雪には優しいのね」 「おまえの妹だからな」 「それだけ?」 「ああ」 あまりにも迷いなく答えるので、雪乃は少し拍子抜けした。 小雪は首を傾げる。 「黒羽さま、お姉ちゃんのこと本当に好きなんですね」 雪乃がむせた。 「ちょ、小雪!」 「だって、お姉ちゃんの話をするときだけ、少し声が優しいもん」 「そうなの?」 雪乃が朔夜を見る。 朔夜は平然としていた。 「知らん」 「知らんって何よ!」 「自分の声など聞かん」 「そういう話じゃないでしょ!」 小雪がまた笑う。 その笑顔を見て、雪乃の胸が緩んだ。 ああ。 この子が笑っている。 それだけでいい。 花霞楼で過ごした年月が無駄ではなかったと思える。 雪乃はそっと小雪の手を握った。 「……元気でいてくれて、本当によかった」 「お姉ちゃん」 「もう二度と、あんな男に近づかせないから」 小雪の表情が曇る。 「鷹司さま……?」 「そうよ」 雪乃の声が低くなった。 「借金は返し終わってたんでしょう。それなのに私の金を取って、小雪にまで手を出そうとするなんて」 「でも――」 「許さない」 雪乃はきっぱりと言った。 花魁として客の前にいるときとは違う。 姉として
雪が降っていた。まだ雪乃が幼かった頃。山道の奥から、か細い鳴き声が聞こえた。「……なに?」雪乃は足を止めた。家へ帰る途中だった。母には、暗くなる前に戻りなさいと言われていた。それでも、その声を無視することができなかった。木々の間を進む。そこで見つけたのは、一匹の白い狐だった。真っ白な毛並み。金色の瞳。そして、後ろ脚には鉄の罠が食い込んでいる。「かわいそう……」雪乃は狐のそばにしゃがみこんだ。狐が牙を剥く。「大丈夫。何もしないよ」もう一度、低く唸る。「怖いよね」雪乃は自分の羽織を脱いだ。「でも、このままだと死んじゃうよ」狐はじっと雪乃を見ていた。雪乃は震える指で、鉄の罠に手をかけた。硬い。子どもの力では簡単には開かない。何度も指を挟みそうになりながら、雪乃は必死に力を込めた。「……もうちょっとだから」ようやく罠が外れる。白狐は飛び退いた。その脚から、赤い血が雪へ落ちた。雪乃は羽織を裂き、狐の脚に巻いた。「これで少しはいいかな」狐は逃げなかった。ただ、金色の瞳で雪乃を見つめている。「もう、人間に捕まっちゃ駄目だよ」雪乃は笑った。「今度会ったら、ちゃんと逃げるんだからね」狐は一度だけ、雪乃の手に鼻先を寄せた。そして雪の中へ消えていった。それが、雪乃の記憶に残る白狐だった。「……あの狐が、朔夜?」翌朝。雪乃は布団の上で天井を見つめていた。眠れなかった。黒羽朔夜。白銀の髪。金色の瞳。言われてみれば、あの日の狐と同じ色だった。「いやいや……」雪乃は起き上がった。「狐が男になるわけないじゃない」口に出してから、昨夜見たものを思い出す。屏風に映った、白い尾。「……いや、なるの?」自分で問いかけても、答えてくれる者はいない。雪乃は頭を抱えた。花霞楼には、怪談好きの客も来る。狐が人に化ける話。狸が旅人を騙す話。山には人ならざる者が棲むという昔話。それを本気で信じたことなどなかった。なのに。朔夜だけは。「……人間じゃないっていうの?」襖の向こうから声がした。「雪乃姉さん。黒羽さまがお見えです」雪乃は顔を上げた。「また!?」昨日、明日来ると言っていた。確かに来るとは聞いていた。それでも早すぎる。「朝から何なのよ、あの男……」文句を言いながら、雪乃